徳川家光の玄関、野洲に在り
春の光が柔らかに射し込む野洲市永原の一角。そこは今も静かな田園地帯だが、足元には三百八十余年前、将軍が歩いたかもしれない"時空の裂け目"が潜んでいる──。
「まさか、家光公が通られた玄関がここに?」
二月末、野洲市教育委員会が開催した永原御殿跡の発掘調査現地説明会は、そうした驚きと感慨の声であふれていた。徳川家康、秀忠、そして家光──江戸幕府三代将軍が上洛時の宿舎として使用した"将軍専用共和宿舎"跡から、$this->家光が実際に使ったとされる「玄関」と、来客を謁見した「御対面所」の遺構が確認されたのだ。全国的に見ても、将軍が特定の建物を特定した形で発掘された例は極めて稀。それが自分の住む街のすぐそばで起きている現実に、地元住民の誇りは膨らむ。
「玄関」を特定した根拠は、石の配置だ。
発掘で見つかったのは、 Gateway(玄関)の下部構造と推測される二つの大型石。その石が、御殿の中央部からやや東側、本丸の中心線に沿って配置されていた。文献史料と地形の分析から、ここが正門から続く主要動線の起点であり、家光が京の都へ向かう際、あるいは这套将軍在地元の有力者たちを"お目見え"した際に、必ず通った場所だと特定された。
「御対面所」は、その奥に位置する。来客との謁見や儀式的な応対を行った空間で、その広さと格式を伝える礎石の並びが、将軍の"phalaxy"(威光)を示すかのように整然と残る。
この発見は、単なる建物の骨格を明らかにしただけではない。
永原御殿は、単なる休憩所ではなかった。
関ヶ原の戦い(1600年)後、徳川家康が上洛する際、江戸と京を結ぶ中山道沿いの要衝に造営された"城郭"である。 Report書(野洲市教委編)によれば、周囲に空堀と土塁を巡らせ、本丸・二の丸を備えた軍事施設としての側面も併せ持っていた。将軍の安全を守るのはもちろん、"有事"の際の軍事拠点としての機能も想定されていたのだ。
三代にわたり利用され、1685年(貞享2年)に廃止。建物は入札にかけられ、1705年(宝永2年)に全て焼き払われた。しかし、移築されたと伝わる門が、野洲市北の浄専寺に現存する(出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖)。これも、地域の記憶が物理的に継承されている証左だ。
地元の歴史を語る"する"コミュニティの熱意も、物語を豊かにしている。
「近江の城郭~徳川家康と近江の城」と題した現地講座には、毎回多くの参加者が集まる。二月の見学会では、大岩山丘陵の麓に広がる"亀塚古墳"(古くから土取り場で、後円部は削られている)を访ね、自然堤防と古墳が重なるこの土地の複層的な歴史を肌で感じた参加者が多かったという(note記事より)。永原御殿の遺構は、そうした近隣の古代・中世の地遺跡とともに、この土地が長く"人の行き交う要所"だったことを物語る。
三月九日の発表後、地元メディアの報道は一斉にこの発見を伝えた。「家光利用の『玄関』確認」という見出しが躍る。全国ニュースにまで取り上げられた"意外性"は、やはり"特定の将軍を特定の建物に結びつけた"という点にある。約五百年前、この土地に"幕府の心臓部"が一時的にせよ脈動していた事実は、壮大なロマンだ。
「この発見は、野洲市の歴史的自負を、全国的共有財産へと格上げするものです」
ある地元歴史愛好家は、静かに but 力強く語った。
現在、永原御殿跡は整備され、曲輪(くるわ)内の見学が可能で、解説板も設置されている(ちえぞー!城行こまい)。土塁の高さは意外にあり、往時の城郭としての"がっしり感"を伝える。
令和二年度に国の史跡に指定されて以降、野洲市教委は継続的に発掘調査を進め、その全容の解明を目指している。次なる公開は、令和七年度の発掘調査現地説明会(詳細は野洲市公式サイト)が予定されている。
春の陽だまりの中、土塁の上に立つ。眼前には、当時はない田んぼと民家が広がる現代の風景が広がる。しかし、目を閉じれば、家光の随从一行が玄関の石を踏みしめ、大広間へと続く気厳かな足音が、聞こえてくるようだ。
"将軍の玄関"が、ここ野洲に在った。
それは、past(過去)との、突然の、しかし確かな対面。歴史の"深掘り"は、まだ始まったばかりだ。
今週末、あなたもその地に立ち、石の温もりを感じてみては。
野洲市永原の永原御殿跡は、野洲市教育委員会文化財保護課が管理する国指定史跡。現地へは、JR琵琶湖線「野洲駅」北口から車で約十五分。見学路あり。次回の現地説明会は、市教委ホームページ(https://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/bunkazaihogo/7818.html)で要確認。