column

風が運ぶ記憶〜菊池飛行場と少年飛行兵の祈り

風が運ぶ記憶〜菊池飛行場と少年飛行兵の祈り

花房台地の緑に包まれた住宅街の一角に、ひっそりと佇む門柱がある。戦後80年を経てもなお、そのコンクリートは風雨に耐え、静かに過去を語りかけてくる。ここはかつて、県内最大規模の陸軍飛行場として栄えた「菊池飛行場」の跡地。特攻隊の中継基地として、多くの若者たちがここから飛び立っていった。

門柱

1940年に完成したこの飛行場は、当初は福岡県の太刀洗陸軍飛行学校の分教所として、飛行兵の訓練が行われていた。滑走路の広さは約150ヘクタール。木造大型格納庫の基礎が今も残るこの地には、かつて航空通信学校や陸軍病院、気象観測所も併設されていた。

しかし、大戦末期になると、この地は悲しい役割を担うことになる。沖縄へ向かう航空特攻隊の中継基地として、多くの少年飛行兵たちがここから飛び立っていったのだ。

「あの日、私は友人たちと別れを告げた。彼らは笑顔で『また会おう』と言ったが、その笑顔の裏に隠された決意を、私は知っていた。」

菊池飛行場ミュージアムを訪れた際、当時を知る地元の男性から聞いた言葉が忘れられない。ミュージアムには、当時の体験者の話や貴重な資料が展示されている。館内は撮影禁止だが、外観からも歴史の重みを感じることができる。

慰霊碑

飛行場跡地の近くには、少年飛行兵の慰霊碑が建てられている。「菊池飛行場で空襲や特攻で亡くなった少年飛行兵の慰霊碑」と記されたその石碑は、地元の有志によって建立された。碑裏面には、戦没者の名が刻まれている。

慰霊碑を建立し管理されている倉沢泰さんは、大正10年生まれの83歳。昭和17年に陸軍高射砲隊に入隊し、各地を転々とされた後、熊本に帰り開拓を始められた。昭和26年に門柱や廃材で作った無縁仏を祀ったのが始まりで、やがて菊池飛行場で亡くなった人々も慰霊することになり、現在の形になったという。

「毎年4月には、少飛会や戦友会と地元区民で合同慰霊祭を行っています。彼らの無念を忘れないために、これからも続けていきたい」

倉沢さんの言葉に、私は胸が熱くなった。戦後80年を経ても、彼らの記憶は色あせることなく、地元の人々によって大切に守られているのだ。

格納庫基礎

現在でも菊池飛行場戦跡は良好な保存状態で、数多く残されている。大型機を格納していたとされるコンクリート製の基礎は、風雨に耐えて静かに佇んでいる。説明板には「木造大型格納庫基礎」とあり、ここに巨大な木造格納庫が存在していたことが記されている。

しかし、飛行場全体は戦後開拓地として入植者が農地として開墾し、宅地として住居をたてたため、今はもう当時の「給水塔」を残すのみとなっている。それでも、地元の人々の努力によって、この地の記憶は未来に伝えられているのだ。

菊池飛行場の歴史を後世に伝えるべく、泗水町豊水の孔子公園内に地元有志が設立した「菊池飛行場ミュージアム」。当時の体験者の話や貴重な資料をもとに、菊池飛行場や当時のことを展示紹介している。ミュージアムを訪れることで、私たちは戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて感じることができるだろう。

風が花房台地を吹き抜ける。その風に乗って、過去の記憶が今も語りかけてくる。私たちはその声に耳を傾け、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓わなければならない。

この春、菊池市を訪れる際は、ぜひ菊池飛行場の跡地を訪れてみてほしい。門柱や慰霊碑、ミュージアムが、あなたを待っている。そして、風に乗って届く声に、耳を傾けてほしい。それは、平和への祈りなのだから。

この地域のビジネスデータを見る

📍 菊池市の開業ガイドへ

風が運ぶ記憶〜菊池飛行場と少年飛行兵の祈り | 菊池市のコラム